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2011/08/26

飯田家

ずいぶんのご無沙汰です、いやtopに文庫のお知らせを置いておきたかったんですよー。

八月上旬に九州へ行ってきました、長崎・熊本鎮魂の旅ですかね。

いつか詳しく書くかもしれないけど、今回は別の話で。
相方が少し触れてます↓

http://tateno.txt-nifty.com/blog/2011/08/index.html
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さてさて!

訪れた熊本城で自分的においしいネタを拾ってきた。

大阪で来月法事があり、母方の祖母の五十回忌なのだが、
その祖母の姓が「飯田」といいます。

幼いころ母(飯田姓)から「加藤清正の家来だった『飯田さん』が先祖やねんで」と何度か聞かされており、
今回、熊本城を訪れたとき、ふと思い出したのでした。

熊本城は、安土桃山末期から江戸時代にかけて加藤清正公が築いたとされている。
清正公に若いころから仕えていた飯田覚兵衛さんは重臣で、思った以上に有名だったと、をを。

飯田直景 (飯田覚兵衛) 

熊本城公式ページ より

飯田丸ゾーン

「飯田丸」の立て札を見つけると相方に「母方の先祖がこの飯田さんに関係あるかもしれない」とネタをフリカケタ。
丁度雨も降ってきたので、飯田丸五階櫓で雨宿り。

熊本城が復元工事をしており、この櫓は平成17年に完成したもので、市民の多くが復元に声をあげてくれたそう。
内部は、やり鉋のあともきちんと残り、堂々とした造りでした。

入り口のおじさんに「母方の姓が飯田なんですよ、由来があるそうなのですが」と告げると、そのおじさんが力説して下さいました!
「飯田覚兵衛さんは石垣造りの名人で、熊本の人達は加藤清正のように飯田さんに感謝している」と。

そう、熊本城は「石垣」が素晴らしかったですよ。

熊本城の石垣

西南戦争の火災でも焼け残った、優美にして堅牢な石垣
江戸時代の儒学者荻生徂徠(おぎゅうそらい)はその著書「鈐禄(けんろく)」享保12年(1727年)の中で「石垣ハ加藤清正ノ一流アリ。彼家ノ士ニ飯田覚兵衛。三宅角左衛門ヲ両カクトシテ石垣ノ名人ト云シモノナリ。石垣ヲ築クニハ、幕ヲ張テ、一円ニ外人ニ見セズト云。今ハ町人ノワザトナリ、武士ハ皆其術ヲ不知。清正ノ築ケルハ大坂・尾州・肥後ノ熊本ナリ」と熊本城の石垣のことを述べています。

熊本城は明治になって、建物が次々と取り壊され、西南戦争では貴重な天守閣や本丸御殿(ほんまるごてん)までも燃えてしまいましたが、石垣はほとんどが残りました。

熊本城の最大の特徴はなんと言ってもこの石垣です。優美にして堅牢な石垣は「清正流」と呼ばれ江戸時代から名を馳せていました。江戸時代の「甲子夜話(かっしやわ)」には「加藤清正ハ石垣ノ上手ニテ、熊本城ノ石垣ヲ見タルニ、高ケレ共、コバ井ナダラカニシテ、ノボルヘク見ユルママ、カエ上ルニ四五間ハ陟ラルルガ、石垣ノウエ頭上ニ覆ガヘリテ空見エズ」とその偉容が描かれています。

熊本市ではこの石垣を永遠に子孫に伝えるため、毎年計画的に傷んだ石垣の積み替え工事を行い、保存管理に努めています。





司馬遼太郎 『おれは権現』の中に短編『覚兵衛物語』もみつけた。

どこから来た話かは謎ですが、いろいろ面白かった。

2016年追記
その後、飯田姓の従妹からの情報によると、私のこのブログをきっかけに、本家筋に家系図を見せてもらったところ、本当に飯田覚兵衛さんがご先祖様だったとか、をを。


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