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2014/03/20

十三

朝ドラ「ごちそうさん」が戦争時代に突入してから改めて大阪大空襲のことを調べてみたので、メモとして記してみる、長いけど。

当時、母が住んでいたのは現在「北野高校」のあるあたり、十三公園の近くだったそう。
あまり戦争の事を話さなかった母だが、大阪大空襲の事は何度か話してくれていた。

大阪の大きな空襲は昭和20年の3月から8月にかけて8度ほど記録がある、約12,200人が亡くなったとのこと。(比べることではないが東京は100,000人以上の死者とのこと)

母は四人兄妹の次女で当時は12歳、小さい頃は縁故疎開もしていたが、この頃は大阪に戻り学徒動員で軍事工場に通っていたそう。
妹(叔母さん)は学校へ、弟(叔父さん)はまだ3歳。

日にちまで聞いてなかったが、昭和20年の6月7日の空襲のことだろう。

その丁度一週間前に、行李ひとつ分だけ大切な物を詰め込み、知り合いのところへ避難させ、空襲で家族がバラバラになった時に淀川河川で落ち合う所を決めたりと備えていたそうだ。

そして朝からの空襲。
母は軍事工場から、叔母は学校から燃え切った自宅に戻り、そして淀川までたどり着き、家族みな無事だったと。

「ようけ、いっぱい燃えてたで、牛も美味しそうに焼けてた。家にな、砂糖があってんけど(他の家にはなかなかなかってんで!)それがカラメルになってて、えぇ匂いやった」
とか、悲惨な伝え方はしなかったな。

叔母は、
「学校からの途中で焼夷弾に狙われたけど、防空壕から知らないおばさんが手を引いてくれて助かった」のだそう。

あとこの辺りが参考になる。

大阪大空襲 十三が焼けた日

そうかあんな所に牧場があったのか?
それは牛もいただろう。
「淀川まで行った」と簡単に言えたもんじゃないな…

そしてその後は祖父の貸していた三国の家が焼け残ったので、そこに移り住んだ。
私も三歳までそこに居た。

この時の行李の中に昔のアルバムを入れていたので戦前の生活が偲ばれる。




その日の体験記をもうひとつ、
大阪大空襲体験の広実さん

広実さんは私の先輩だ、母校に「ほむら野に立つ」ブロンズ像が立っている。

母が亡くなる前に「十三公園のあたりに行ってみたいなぁ」と言っていたが叶えてやれなかった、見えない目で何が見たかったのだろう、プリンでも買って一緒に食べたら良かったな。

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2014/03/01

三原順さんに花束を 2014




http://mihara.to/flower/Mar2014/index.html

今年も期間限定です。

↑画像は昨年のものです。
今年もレコードネタにしてしまいました。

通常の花束ページが2年ほど前からずっと荒らされていて、どうにもならないので現在は停止中です。
でも最新の書き込みが三原さんの同級生の方からで、大変興味深いです、嬉しい。

来年で20年になってしまうのですね、昨年は原画展が大きなイベントだったのですが、来年はどうしたものか…

今年もクリスマスローズをがたくさん咲きますように。



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